♠51.酒害を治せる人は、それは酒害者本人だけである ♥

感冒ヴィルスにおかされて発病する。
結核も、盲腸も、その他の病気もいろいろな菌の作用でかかる病気である。
その病原菌を殺すか、患部を切除することによって病気は全快する。
医師が症状を判断し、薬を処方し、メスを振ってその原因を除去してくれさえすれば、
患者の生命力は肉体を元どおりにしてしまう。
しかし、酒害だけはこうはいかない。
酒害の病原はアルコールである。
このアルコールを身体から除去したり、アルコールによって侵された肉体を治すことは医師としても容易なことである。
だが、再びアルコールを口にしない人間に改造することは誰にもできないのである。
それをできるのは唯一人、それは酒害者その人なのである。
酒害から抜け出そうと決意する酒害者だけがこの難事業を達成できる幸運をつかめる唯一人の人なのである。



♠52.断酒は車の運転と同じだ。昨日まで無事故だからといって、
今日も無事故だという保証はどこにもない ♥


三十年無事故で表彰されたあるタクシーの運転手がその表彰式の帰りに人をはねたという記事が新聞にのっていたことがある。
これは極めて珍しいことだから新聞のネタになるのだが・・・。
永年断酒していた人が酒を飲み出したからといって新聞のネタにはならない。
これは至極当たり前のことであるから、一般社会では別に気にしない。
それどころか、あの呑ン平がいつまでもつだろうかと、酒を止めていることを不思議がる人の方が多い。
三十年無事故の運転手さんは今日も無事故だと信じているから、事故を起こすとびっくりするわけだけど、
われわれが断酒に失敗しても「やっぱり」と言われるのがオチである。
誠に残念だけれど仕方がない。
今日も、初心に帰って「やっぱり」と言われないよう「一日断酒」頑張りましょう。



♠53.われわれの敵は酒ではない、
われわれの敵は自分の心だ ♥


一家の主人が酒害にかかったため地獄の苦しみを味わった家族が「悪いのはお父ちゃんではない、
悪いのは酒なんだ」と思うのは止むを得まい。
しかし、だからと言って「この世から酒がなくなればよい」とか「この世から酒をなくしよう」と考えることは、
これは明らかに行き過ぎであり、間違った考え方である。
自分たちの一家の柱である人を交通事故で失ったからといって「この世から自動車をなくしよう」と叫ぶ人がいたら、
世間の人は同情はしても同感はしないだろう。
酒害にかかった人のなかにも、なかなか断酒ができずにいて「畜生!この世に酒がなければこんなにならなかったのに・・・」と
酒に罪をかぶせて、自分の心の弱さに頬かぶりしようとする人がいるものです。
誘惑に負けてしまう自分の弱い心に打ち克つことが断酒継続の基本であることを改めて銘記しよう。
われわれの闘わねばならぬ相手は己の心のなかにある弱い己なのです。
が大切である。



♠54.酒をやめることが何故恥かしいのか、
やめられないことの方が本当は恥かしいのに ♥


断酒会に入ったことを恥ずかしがって隠している人がいるものです。
例会に通ってくるところを見ると、断酒会に入ったことを恥ずかしがっているとは思えないし・・・。
アル中になったことが恥ずかしいのなら、酒を止めようとする自分を恥ずかしがる理由は全くない。
なぜならば、酒を止めることは恥ずかしいアル中から脱却できることなのだから・・・。
どう考えても、酒を止めることは全然恥ずべきことではなさそうである。
即ち、断酒を恥ずかしがるのは酒害者特有の歪んだ心理以外の何物でもないということである。
この酒害者心理を克服する方法は唯一つ断酒継続しかない。
即ち一日断酒である。
何ヶ月かたち、何年かたつうちに、断酒生活のすばらしさを体得するようになり、
断酒会の不思議な魅力を知るに及んで、このような断酒に対する恥ずかしさがなくなってゆくものなのです。
それどころか、断酒会員であることを誇りにすら感ずるようになるのです。



♠55.酒害者は自分の最も頼りにする人から傷つけていく ♥

家庭裁判所の離婚調停で、最も高率を示しているのが酒にまつわる事件です。
今日も全国各地の家裁でこの種の調停が行われていないところはないでしょう。
そして申立人である酒害者の奥さんは、異口同音に訴えるのである「もうこれ以上の我慢はできません、
何とか別れさして欲しい・・・」と。
そして、酒害者である夫は「別れないでくれ・・・」と哀訴するのです。
酒害が進むにつれて、甘えの心が増長していくことは知られています。
酒害者が最初に甘えるのは家族です。
酒を飲んで起こしたしわ寄せをすべて家庭に持ち込んでくるのもこの甘えの心の結果なのです。
このようにして酒害者は自分の最も頼りにする家族の心を傷つけ、
やがて勤務先の上司・同僚、入院すればしたで医師や看護婦の心を失ってだんだん孤独になっていくわけです。
どこかで断ち切らねば酒害者の末路は目に見えるようです。
断酒会を訪ねてみましょう。
断酒会の仲間は酒害者を孤独にはしません。
十年知己のようにあなたを迎えてくれるでしょう。
なぜなら、その人達も酒害者だからです。
もまた初日なのだと思うことが大切である。



♠56.酒をやめなければならない理由はのんでる頭では
わからない、酒をやめてみて少しずつわかるものだ ♥


酒を飲んでいる人に、酒をやめなさいと言ったって、なかなか止められるものではないし、
まして酒害がかった人には尚更のことである。
酒に溺れている人には、のむ理由は山ほどあるが、止める理由は一かけらも見つけられないものです。
「落ちるところまで落ちないと止められない」というのも、この辺を物語っているのです。
だから、落ちないうちに断酒させようとするには、
多少物理的であっても強制的に止めてもらうことも止むを得ないかも知れない。
即ち、医師の指導のもとに入院して酒を断つ方法も必要な手段な訳です。
そうして、酒を断った頭で考えてみると、何故飲んではいけないのかということがだんだん解ってくるものです。
「断酒を始めるのに理屈はいらない」という言葉はこれらの事情を言っているのです。



♠57.やめられない酒だからやめるのだ ♥

「あなたは七十をとうに過ぎて、もうすぐ喜寿になるのに、何故そんなに好きな酒をやめたのですか」と、
入会間もないある会員が聞きました。
その聞いたほうの会員は入会はしたものの、未だ酒の未練が絶てずに、時々のんでいる様子でした。
「やめられない酒だから、やめたんです」と七十五歳になる会員は答えました。
答えた方の会員は、断酒暦十年というベテランで、全道各地に請われて酒害相談に歩いている方です。
「やめられない酒だから、やめたのです」この禅問答のような言葉、これが断酒哲学なのです。
入会したが、未だ失敗を繰り返しいる新入会員は「やめられないから、飲んでいる」のであり、
七十五歳の老会員は「やめられないから、やめる」のである。



♠58.のむ理由は見つかってもやめる理屈は立たぬもの、
先ずやめようそれから考えよう ♥


酒害者に酒をやめなさいといって、素直にやめる人がいたらお目にかかりたい。
おそらく100人が100人は何やかにやとやめる必要はない理由を言うものです。
曰く「オレが酒害者ならアイツは何だ。オレよりもっとすごいのに何でオレがやめなきゃなんないんだ」
曰く「酒を飲んで悪いと言う法律はどこにもない。
あの先生は一日三合以内ならなんでもないって言ったじゃないか」
曰く「のみ過ぎるのが悪いんだ。
わかっているんだ、これからは家で二合しか飲まないから・・」
曰く「病院に入院しろって・・・。冗談じゃない、おかしいのは家内だよ・・。
入院させなきゃなんないのは家内だよ・・」
こんな酒害者でも一日は断酒することができるものです。
そして断酒例会に出てみましょう。
やめる理屈が見つかりますよ。



♠59.断酒道には免許皆伝もなければ達人もいない、
そこには酒に自由を失った酒害者がいるだけだ ♥


世の中には道と名のつくものがたくさんある。
茶道、華道、柔道、書道などあげたら相当な数になると思う。
そして、それぞれに、免許皆伝があり達人もおれば師範もいる。
それは、何年か繰り返し訓練を続けていれば腕は上達して再び初心者にもどるということがないからである。
書道師範の人がある日突然小学生のような字を書くようになることは決してないのである。
ところが断酒道にはこれがあるのである。
十年以上も断酒し、断酒会の中心人物として活躍していた人が、
ある日突然、酒害者になってしまうことがあるのである。
だから、断酒道には達人もいないし、師範と名のつく人もいない、
ましてや免許皆伝などという境地には絶対なれないのである。
要するに、断酒家とは酒をやめている酒害者にすぎないのであって、
呑ン平にもどる可能性は永遠に消えないということなのです。



♠60.酒害は不幸な病気である、しかし治そうと思えば
ずなおる病気である ♥


誰だって酒害者になろうとして酒を飲む人はいない。
気がついたら、酒害にかかっていたというのがほとんどの酒害者の姿ではないかと思う。
そして、その酒害を治そうとして、酒の量を減らしてみたり、ニ、三日酒を断ってみたりしたことが必ずあると思います。
しかし、酒害は治るどころか、だんだん重症になってゆくのに当惑を感じたに違いありません。
酒害という病気は、進行性の病気ですからたとえ何日か、何月か、何年か断酒したとしても、
また、どんなに少量に減量したとしても、のんでいる限り、死に向かって病状は進行してゆく病気なのです。
だから、一生治らないとも言えるのです。
全く不幸な病気だと言わねばなりません。
しかし、原因はアルコールです。
その原因を取り除けば、簡単に治る病気です。
その原因を取り除くのは、医者でもなければ、家族でもありません。
酒害者であるあなた自身だけができることなのです。



♠61.断酒道には王道もなければ近道もない ♥

のんでいた頃の私たちは、高慢と自己中心的な考え方に満ちていた。
しかし幸いにも、私たちは酒を断つ決心をすることができ、まがりなりにでもそれを実行してきた。
だが、私たちの心はともすると、高慢になり、自己中心的になりやすいものです。
酒をやめた当初は自信もなく、一日、一日を真剣にすごしていたが、
一ヶ月を過ぎる頃から少し考え方が変わってきたように思います。
例会に出なくても断酒はできるのではないかとか、何も無理して生涯断酒を誓わなくても、
少しぐらいなら時には飲んだっていいのではなかろうか。
私は本当に酒害者なんだろうか。
そうでなかったのではなかろうか・・・と、私たちは結局は酒に手を出して失敗してきた訳です。
自分だけが特別のエスカレーター付きの道路に立っているのではなく、
自分も皆さんと同じように泥だらけの急峻な断酒道を、
もがき苦しみながら一歩一歩踏みしめ歩かなければ真の生涯断酒は完遂され得ないのだと、
改めて考えなおそうではありませんか。



♠62.最初の一杯に罪の意識を感じないうちはだめだ ♥

断酒を決意しても、一人ではなかなかやめられず断酒会の門をたたいて例会に通っているのに
チョクチョクと酒を口にして後悔している人がいるものです。
その人たちは異口同音に言います。
「ついうっかりと」
「気が付いてみたら酒を口にしていました」・・・と。
しかし、夢遊病者ではあるまいし「酒を飲もう」と思う心と、「のんでは駄目になる」
と考える心との葛藤があったに違いない。
ただ、その葛藤の時間が短いか、長いかの違いはあるだろう。
断酒歴の浅い人ほど、この葛藤の時間が短くて、安直に酒に走ってしまうようです。
例会では、断酒の価値観を育ててくれると同時に、長く通えば通うほど、
最初の一杯に罪の意識を感じる心も育ててくれます。
まるで、コソ泥のように、人に隠れて酒を口にしなければならない自分をさめた別の心で見てごらんなさい。
恥ずかしいというより、そのみじめさにゾーとしませんか。



♠63.酒が悪いのではない、酒を飲み続けた
私が悪いのだ ♥


主人の酒で苦しめられた奥さんや子供さんの手記に、
ときどき「この世から酒がなくなればいい」というような言葉が見えることがある。
また、酒害者本人の体験発表の中にもこれと似たような言葉がきかれることがある「この世の敵は酒である。
私は断固として酒と闘う・・ 」とか「酒のない国へ行きたい・・」と。
酒を止められないからと言って、自分の前からすべての酒をなくしてしまえと言う考え方は、
まさにアル中性格丸出しであって、いやしくも断酒家たるものの考えるべきことではない。
私たちは酒害の原因は酒ではなく、酒の飲み方であることは例会で話し合い、確かめ合ってきた筈です。
車で事故を起こしたからといって、車が悪いと言ったり、車をこの世から無くしてしまえばとは誰も言いません。
それは運転の仕方に問題があるということは赤ん坊でもわかる理屈だからです。
酒害も、飲む側にその責任があることをあらためて認識しなくてはなりますまい。



♠64.三年のみ続けると一年寿命が縮む ♥

断酒会に入会してくる人は、ほとんどが本当の年齢より老けて見える。
ひどい人になると「六十過ぎかな」と思って体験発表を聞いてみると四十七歳だという。
ある研究発表によると、酒害で入院してきた人の退院後の追跡調査では三分の一は断酒しているが、
三分の一はまだ飲んでおり、残りの三分の一は死亡しているという。
また、別の研究発表によると、アルコール中毒と診断された患者の死亡率は、
ガンと診断された患者の死亡率を上回っているという。
そして、酒害者の内臓は、たしかに老化しており、個人差があるけれども、十歳以上、二十歳近くふけていると言う。
こうなると、酒害者になるのに三十年かかったとすると、三十年飲み続けているうち二十年以上寿命を縮めることになる。
数字のマジックのようで恐縮だが、酒害にかかってしまった人は、三年飲むと一年寿命を縮めることになり、
誠に恐ろしいと言わねばならない。



♠65.自分が酒害者でないと言い張っている人は、他人に酒害者だと指さされ、
自分を酒害者だと心から認めている人は、他人に酒害者だったとすら言われない  ♥


酒害の初期は、単なる酒好きだと思われる程度で、他人はもちろん、本人ですら病識はない。
そして、酒害が進行して、回りのものが「酒害にかかったのでは?」と思う頃には、
本人は病識を拒絶するようになってしまう。
これがアルコール依存症の重大な特徴の一つである。
だから上司の説教でも家族の哀願も通用しない。
しかし、断酒会に入るとか、病院のお世話になるとかして、少しずつでも酒害の恐ろしさを勉強して、
何日かでもいいから断酒した頭で考えてみた時に「自分はやはり酒害者なんだなあ」と気付くようになるものです。
こうなればしめたもの、あと「一日断酒」を続けてさえいればいつしか
「あんたが酒害者だったの?」と不思議がられるようになるのです。



♠66.断酒とは酒をやめることではなく、
のめなくなることである ♥


「酒をやめる」という言葉には自主的な意志を感じる点もあるが、他からの強制によって「やめている」という一面もない訳でもない。
酒をやめた当初は「やめねばならない」という心の働きはあっても、「少しぐらいは飲んでもいいだろう」
という誘惑を抑えるのに苦労する時でもある。
それは、「自分は酒害者である」という認識のうすい時でもあるから、誠に止むを得ない。
しかし、この我慢しながらでも、「酒をやめる」ことを続けているうちに、いつしか自己反省の心が強くなり、
過去の己の所業を思い出しては身震いするようになるものです。
こうなればますます素直になり、自分をとりまくあらゆる人間に感謝の心で一杯になり、
酒で苦しむ人達への奉仕に明け暮れるするようになれるのです。
こうなれば、もう「酒をやめる」というより「酒は飲めなくなる」心境であって、まさにこれこそ断酒道の極意と言えるかもしれません。



♠67.我慢だけでは断酒はできない、それはいつか爆発するからだ、
我慢しないですむ秘訣は断酒例会の中にある  ♥


断酒の最初は我慢です。酒、酒、酒・・・と明け暮れている人達にとって、断酒とは我慢以外の何物でもないでしょう。
一日断酒とは一日我慢なのです。
しかし、我慢も一日や二日なら何とかなるでしょうが、数ヶ月も数年も我慢し続けるということは
酒害者にとっては至難の業です。
人間の我慢には限度があります。
いつか我慢し切れずに、爆発的に酒を飲み出してしまうのがオチです。
だから、生涯断酒を続けるためには我慢をしないですむ断酒が必要な訳です。
それには断酒例会に出席することです。
我慢し続けながらでも例会通いを続け、正直に自分の体験を話したり、
他の人の体験を聞いているうちに気が楽になりやがては、例会への出席が楽しみになってきて、
我慢するという意識がだんだんとなくなってゆくのがはっきりわかります。
本当に不思議なこととしか言えません。



♠68.何年酒をやめようと酒害地獄は断酒家から遠ざかりはしない、
それは常にコップのガラス1枚しか離れていない  ♥


断酒会に入会し、頑張っていた同志がいつか例会に顔を出さなくなったと思ったら、
病院に入院したと言う噂が伝わってきた。
その噂は「死んだ」という知らせによって現実のものとなった。
彼は、入院したことを私たちに隠そうとした形跡がある。
恥ずかしかったに違いない。
気の毒な人だと思う。
私たちのところへ「酒を飲んでしまいました」と何故素直に来られなかったのだろう。
私たちは、酒を飲んだからと言って、罰したり、除名したりはしないのに・・・。
一度酒害にかかった私たちには、コップ一杯の酒が「酒害地獄」への切符であることは十分認識しているのに、
何故飲んでしまうのか?
自分だけは別だと思うのだろうか。
私たちは所詮、病院か断酒例会しか行くところのない者なのだ。
としたら、病院よりは例会の方がよっぽどましではないだろうか。



♠69.明日からやめるという言葉は酒害が言わせる言葉、
今日止められない酒なら明日だって止められない ♥


「明日からやめるから、今日コップ一杯でいいから飲ませてくれ」と奥さんに哀願する姿は、
酒害者の多くに見られることである。
そして、次の日も又、同じ言葉を繰り返すのを見て、酒害者はウソつきだと思うのである。
しかし、酒害者本人は、決してうそをついて酒をせしめようと思って言ったのではない。
「今飲みたい」というのも本当の心だが、「酒をやめたい」というのも真実の叫び。
だから「やめるのは明日にまわして、今、少しのもう」ということになり、明日もまた同じになってしまうのである。
だから、「明日からやめる」という心を大きく膨らませて「明日からではなく、今からやめよう」
と変えられるように励ましてあげることが酒害者に対する真の愛情であり、
まわりの家族、および私たち断酒家のなすべきことではないかと思うのである。
可哀想だといって一杯飲ませることは却って苦しめることであることを知りましょう。



♠70.酒をやめるだけだったら断酒会はいらない、
酒をやめ続けるために断酒会が必要なのだ ♥


酒をやめたいと断酒会に入ってくる人が多くなった。
しかし、いつか例会に来なくなる人も相変わらず多い。
全国的な統計で言うと、三人のうち二人は途中から来なくなると言う。誠に残念なことである。
酒地獄から一日でもいいから逃れたいと思う気持ちは、酒害にかかった人なら、どんな人でも多かれ少なかれ持っていた筈。
だからこそ断酒会に来たのであろうし、一人断酒は難しいと悟ったから仲間を求めてきたのであろうに・・・。
一日断酒はどんな重症な酒害者でもできるし、普通の人なら三日断酒もさほど難しいものでもない。
しかし一ヶ月断酒となると少し難しくなってくる。
ましてや、三年断酒となると、その成功率はぐんと少なくなる。
それを成し遂げるには、断酒例会出席以外の良い方法はこの世にはなさそうである。



♠71.どん底を見た人は酒をやめる、
どん底が見えない人は飲み続ける ♥


酒害者にとって「どん底」とは一体何であろうか。
奥さんの涙を見てピタッと酒をやめた人、会社をクビになって吃驚して止めた人、
家族がバラバラに離散しても未だのみ続けている人・・・。
酒害者にとって「どん底」とは一体何であろうか。
簡単に言えば、酒害者が「飲めなくなったとき」がどん底であると言えるが、
それは肉体的に酒が胃に入らなくなった時か?
勤め先から追い出されそうになった時か?
それとも手のふるえに怯えた時なのだろうか。
断酒の仕方は十人十色という。
酒を飲まない方法が十人十色だというのではない。
「どん底」が千差万別だと言うのである。
要は「どん底」とは酒害者個々人が、それぞれ自分の姿の中に見つけた認識であって、
それが断酒の動機であり、断酒継続の糧である。
これが十人十色だということである。
しかも、これは断酒し続ければ続けるほど、はっきり見えてくるから不思議でもある



♠72.断酒とは動き回っている独楽のようなもの、
動きが止まるとズッコケる ♥


断酒は誰でもできる。
しかし、断酒継続はなかなか難しいと言われる。
それは、断酒して何ヶ月か、何年か経つとだんだん「断酒道五心」を失ってゆくからだ。
他の人の体験発表を聞いても「また、同じことを言って・・・聞き飽きた」などと考え、
自分の悪業については話したがらない。
断酒会のおかげで断酒できたのに自分ひとりで酒を止めたのだと思うようになり、
例会や断酒の友への感謝を忘れ、会活動を逃げようとする。
やがて、例会へ出席する意味を失って欠席するようになり、気がついたら飲んでいたということになりかねない。
このようなことを防ぐには「行動する断酒」以外にはなさそうだ。
新しい断酒の友を求めて行動する人、酒で苦しんでいる人の手を握って涙する人・・・。
これが「行動する断酒」であり、断酒を続けるエネルギーになるのです。



♠73.一杯飲めば自分にわかる、二杯飲めば同志にわかる、
三杯飲めばみんなにわかる ♥


断酒会に入っても、なかなか酒をやめきれないでいる人がいる。
統計によると十人入会しても七人ぐらいの人が、酒をやめきれないで再び酒地獄に戻っていくという。
中には、三年も五年も断酒していたのに、突然魔がさしたように飲みだす人もいる。
生涯断酒するということは、なかなか至難の業であるようだ。
これらの断酒に失敗する人たちは、少しぐらいなら家内にわからないだろう。
たとえ家内にばれても、例会の日だけ飲まないで出席すれば、断酒会の同志だってわかる筈はないと思っているのだろうか。
「天網恢恢祖にして漏らさず」とか。
こっそり一杯飲んで、口を拭って、家族や周囲を騙したつもりでも、騙すことができない人が一人いる。
それは自分自身である。
良心の呵責は、その言動に表れ、断酒会の仲間にはすぐわかるものだ。
誰も何も言わないけれど。
自分を偽らないで、胸を張って例会に出るためには「今日の一日断酒」で頑張る以外何もない。



♠74.命をかけてのんできた酒だ、
命をかけてやめ抜こう  ♥


「これ以上飲んだら死ぬぞ」と言われても「酒で死んだら本望」とばかり飲み続けてきた私たちである。
しかし「酒で死ぬなら本望」というセリフは忠告者に対する開き直りであって「酒で死にたい」
とは思っていないのが本音である。
酒が切れると死にそうになるあの苦しみは酒害者でないとわからないであろう。
この禁断による苦しさから逃れるために酒を求めるということは、大袈裟に言えば、
死の恐怖から逃れるために酒を求めると言える。
即ち「生きたい」がために酒を求めるのであって、文字通り「酒こそわが命」なのである。
「飲めば死ぬ」であろう酒を「生きんがために飲む」。
外から見れば大変な矛盾ではあるが酒害者にとっては真剣である。
だから、誰が何と言おうと「命をかけてのむ」のである。
今、幸いにも断酒会の仲間の支えによって酒を断つことができている。
そして、酒害による矛盾がだんだん消えて「酒を飲めば死ぬ」という自覚を心の奥底に育てていただいた。
今こそ、「生きんがために」、真の意味での「命をかけて」断酒道を守り抜かねばならない。



♠75.酒害は素直な心を失わせ、
人格を低下させる ♥


酒害者は、その症状が進むにつれて、素直な心が閉ざされてゆく。
家族や友人が心配して「お酒を止めたらどうですか」と注意しても「オレくらい飲んでるやつはたくさん居る。
なぜオレだけ止めなければならないんだ」ときわめて反抗的になる。
本当は、心のどこかで「酒はやめなければ駄目になる」と思っているのに、
口をついで出る言葉は「オレは死んでも酒はやめないぞ」となってしまう。
これは、アルコールによって心に変化を生じ、すべてのことを拒絶する心理が働くからだと言われている。
幸いにも心の隅にあった素直な心が広がって断酒を決意し、断酒会に入会したとしても、なかなかこの心理は消えない。
入会当時の会員は、他の会員の体験発表の都合のいい部分だけしか耳に入らないし、体験発表をさせると、
自己洞察は浅く鈍く、人格が著しく低下しているように見える。
しかし、例会を重ねていくうちに、この真理は消え、いつしか、鋭く自己反省のできる人格者に変容してゆくから、
これはまた不可思議だと言わねばならない。



♠76.ほめられているうちは未だ信用されていない証拠、
自惚れてはいけない ♥


ある断酒会員が酒宴に出てジュースを飲んでいた。
宴たけなわになって、周りの酔っ払いがイタズラ心を起こし、その会員がトイレにたったすきに、
彼のジュースにウィスキーを少し入れてみんなに言った。
「彼が本当に酒をやめているかどうか試すから、みんな黙って見てろ・・・」と。
何も知らないその会員は席についてやおらジュースを口に含んだ。
「ウィスキーが入っているな」と瞬間思ったが、その液体はスーとのどの奥へ入っていった。
そのとたん、満座の酔客は手をたたいて歓声をあげたという。
呑ン平が、わずか3ヶ月、6ヶ月酒をやめているからといって周りのものは、心の底から信じてくれないということだ。
「お酒を止めたんですって?
よくやめられましたね。
6ヶ月も止めてるんですか!
意志が強いんですねえ・・」と、断酒していることが話題になるうちは信用されていない証拠・・。
自惚れてはいけない。
断酒していることが話題にならなくなった時、本当の断酒家になったと言えるのかもしれない。
 



♠77.酒害者にとっては一滴の酒でも多すぎる、
しかしのみ出したら一升の酒でも少なすぎる ♥


酒害は進行性の病気である。
飲む量がいかに少なくても確実に重態に向かって進行してゆく。
それでは、酒をやめれば酒害は治るのだろうか?
残念ながらそうはいかない。
何ヶ月、何年断酒したからといって、酒害にかかる前の状態に戻ることは決してない。
このことは、よく列車にたとえられて説明されている。
即ち、断酒しているということは酒害という列車が一時停止しているに過ぎないのであって、
出発点に向かって逆進してはいないのである。
だから、「今度こそは、酒害にかからないように上手に飲んでやろう」と言って、
少しずつ飲みだしたとしても、それは一時停止していた酒害列車を徐々に出発進行させるだけであって、
前より悪い酒害の状態になるだけである。
そうなったら、ブレーキなしで坂を下るようなもの。
一升酒では物足りない大酒害者になるだけである。
最初の一杯こそ十石に値する一杯なのである。



♠78.自分のみじめな過去を認めてくれて、
それをこれからの糧にしてくれるところ、それが断酒例会だ ♥


『飲んではいけないことはわかっていたんだ。
あのことだって、しようと思ってしたことではない。
病気がさせたんだ。
しかし、結果は大変な不道徳なことだった。』
『自分の意志以外のところで、自分が不道徳な事をしている。
この恐ろしさ、惨めさ・・・』
断酒会の例会は、こんなことを話し合う、心の棚おろしの場所だ。
そこには、普通の場所で普通の人に、話すことのできない、みじめな、悲しい体験を、
自分のことのように、涙を流し、感動して聞いてくれる断酒の友がいる。
これこそ、真の親友でなくして何であろう。
真の友とは、互いに相手を理解し、向上し会うものでなくてはいけない。
思えば親友とは何だったんだろう。
それは『首吊りの足を、お互い引っ張り合っていた仲間』に過ぎなかったのではなかったか。



♠79.酒害者は止めねばならないと思いながら
のんでいる  ♥


父はウィスキーびんを自分の前に立てて、水のようにそれを飲んでいた。
私とは母、なく涙もかれて、黙って父の姿を見ていた。
私は衝動的に父の前からウィスキーを取り上げコップにそそいだ。
1センチぐらいの高さの琥珀色の液体がコップの中でゆれた。
私はしばらくこの揺れる液体を眺めていた。
私の心の鳴咽に合わせたようにウィスキーはゆれ動いた。
私は思わずその液体を一気に飲んだ。
やけるような感じが咽喉に走り、しばらくして胃の中に満ち満ちた。
父は黙って私を見ていた。
数秒もしないうちに、私は胃がひっくり返るような衝撃を感じ、台所へ走って、吐いた。
再び父の前に座った私はもう一度ウィスキーのびんを手にした。
突然、父の手が伸びてきて、私の手からウィスキーびんを奪った。
そして怒ったように言った。
『飲むんでない!身体に悪いよ!』その時、父の眼に光るものを見た。



♠80.酒害をうらんではいけない、酒をやめてさえいれば、
酒害に感謝する日がきっとくる ♥


「今では、酒害にかかったことを有難いことだと思い感謝しております」と体験発表する人がたくさんおります。
そんな人はみんな断酒暦の長い人達です。
断酒しなければならないことをイマイマしく思っている新入会員にとってはなんとも嫌味な、キザな言葉ではある。
しかし、これは真実であり、真に素直な謙虚な言葉なのです。
「酒害に感謝します」といった断酒暦の長い会員だって、実は入会当時は『うまいこというな。
キザな奴だ・・』などと思ったに違いないのです。
それが何年か断酒しているうちに、その人の精神革命がなされ、断酒の中に生き甲斐が見付かるのです。
断酒道とはこんなものであり、ここに断酒道のすばらしさ、不思議さの秘密があると思うのです。



♠81.体験発表を聞いて泣く人はあっても
笑う人はいない ♥


「断酒の先生は先輩ではない。
新入会員こそ真の先生である』という言葉がある。
これは断酒会の先輩諸侯に「先生顔をしてはいけない、謙虚になりなさい」と諭している言葉でもあるが、
また、「新入会員の話しを聞いてあげなさい。
そこには多くの教訓があり、断酒の指針が含まれていますよ」と教えてくれている言葉でもある。
だから、「断酒会とは体験発表に始まり、体験発表に終わる」という言葉も生まれてくるし、
例会はもちろんのこと、大会に、研修に、はては酒害講演会などにも、
体験発表は必要にして欠くことのできない、中心的なものとして存在価値を認めねばならないのである。
どんなすばらしいスライドや映画よりも、一人の酒害者のトツトツとした体験発表のほうが、
はるかに私たちの心を動かしてくれるのである。
そこには、嘘もなく、ハッタリもなく、説教もない、その人の慟哭にも似た反省だけがあるからである。
だから、普通の会合なら、多くの聴衆の大笑い、失笑が当然起こるような話であっても、
笑い声一つ聞こえず、静かにうなずきながらハンカチを目に当てる姿が見られるのである。



♠82.三ヶ月であってもやめてさえいれば褒められる、しかし
たとえ十年やめていてものんでしまえば軽蔑される ♥


人生のどん底ともいえる酒害地獄から立ち直った人は、その谷底が深ければ深いほど、高い人格者に変容する。
多くの人がなしえない「断酒」という人生の難事業を継続しているから、その人格が光り輝くのであるが、
その人が酒を飲んでいるらしいと噂されるようになっただけで、アッという間に軽蔑の目で見られるようになる。
だから、この難事業に挑戦し、頑張っているときはたとえそれが三ヶ月でも「偉いわねえ」と褒められるし、
三ヶ月やめて死んだ人は永遠に断酒家として語り伝えられるが、
十年やめてても飲んで死んだ人は単なる酒害者でしかなくなってしまう。
要するに、断酒とは死ぬまで継続することに価値があるのであって、
途中で飲んでしまえば一文の価値もないということである。



♠83.単身者だから孤独なのではない、酒害にかかれば
誰だって孤独になってしまうのだ ♥


「単身者は孤独だ、それゆえに酒害から立ち直りがたい」と言われる。
しかし、単身者だから孤独なのだろうか。
妻や子供に背を向けられながら暮らしている酒害者は、家族がいるというだけで孤独でないと言えるだろうか。
考えてみるがいい。
「単身者」と言われる酒害者の大半は、過去に妻をめとり、子供をもうけていた人である。
それが、妻や子供に見限られ、一家離散という結果になったのではなかろうか。
また、未だ結婚していない人は、やはり、酒ゆえに結婚運が遠のいていったのではなかろうか。
とすれば、孤独の原因は単身だからではなく、酒害であることが判然とする筈である。
だから単身者であっても、毎日楽しく、生活している人がいるのは当然であって、
その人が特に人間的に優れているわけではない。
ただ自分の酒害に気がついて酒を断っているに過ぎないのである。
即ち、断酒家には孤独はないということである。



♠84.断酒は明日からでは遅すぎる、
止めるのは今からだ ♥


「明日からやめるから今日一杯飲ましてくれ・・・」と家族に哀訴して一合の酒をもらい、
ふるえる唇を机上のコップに近づけて飲んだ経験はないだろうか。
確かに、その時は「明日からやめよう」と思ったに違いない。
止めねば駄目になることは、頭の中では十分わかっているのだが、
あの禁断の苦しみはこのことを怒涛のように押し流して「飲ましてくれ」となったのではなかろうか。
そして、次の日はどうだったのか。同じことの繰り返しではなかったか。
所詮、アルコールは麻酔剤。
今日飲めば、明日それより少なくていいということはない。
明日は今日以上欲しくなるのが麻酔剤の特徴。
だから、「止めるのは明日から」というせりふは確かにその時点では真実の叫びだが、
結局は守れない願いで終わってしまう。
「明日から止めること」は「今日止めること」以上に難しいことなのです。
「明日から止める」と考えずに「ようし、我慢するのは今だ!
確かに死ぬほど苦しいが、酒を飲んで死んだ奴はいるが、酒を我慢して死んだ奴はいない。
頑張るのは今をおいて他にあるか」と考えようではないか。



♠85.今日のめば明日はもっと苦しくなる、
今日我慢すれば明日はきっと楽になる ♥


習い事、減食、禁煙・・・など、三日もたてばやめてしまうことを「三日坊主」という。
断酒も亦然り、「今度こそは絶対やめる」と誓ったのに、三日目あたりで酒に手を出してしまった経験は、
呑ン平ならほとんどの人が持っているであろう。
これは、アルコール依存症にかかってしまうと、その酒を断てば離脱症状が三日目あたりに出てくることでうなずける。
二日酔い(急性アル中)なら酒の匂いを嗅いでも吐き気がするのだが、これがアルコール依存症(慢性アル中)になると、
この「迎え酒」が最高に美味しくて、しかも離脱症状を取ってくれるのだから真に都合が良い。
その誘惑の強烈さは経験したものでなければわからないであろう。
しかし、この美酒は一時しのぎの毒薬であって、酔いがさめれば前よりも激しい離脱症状が襲ってくるのが理の当然。
だから、苦しいけれど、どこかでこの離脱症状の壁を突き破らなければ断酒はできないことになる。
有難いことに、酒さえ飲まなければ、離脱症状は何日かすれば完全に治ってしまうのだから、
今日、我慢することがもっとも大切な断酒の入り口なのである。



♠86.酒害者だからこそ断酒できるのだ ♥

断酒会に入会しても、なかなか酒をやめられないで、本人も家族も苦しんでいる人がいる。
こんな会員を見て、あるベテラン断酒会員が「飲み足りないのだろう、もっと飲ましてやりなさい・・」と言った。
一見さじを投げたように見えるこの言葉だが、実は非常に深い意味を持った言葉なのである。
そもそも、断酒というものは、自ら酒害者と認識した時に、自らの意志で酒を経とうとする行動なのだから、
「酒害の認識のないところに断酒はない」訳である。
「もっと飲ましてやりなさい・・」というのは、その会員が自らの「どん底」を見付けて、
酒害の認識を得て欲しいという、先輩としての願いから出た言葉なのである。
酒をやめられない人を酒害者というのであれば「酒害者だからこそ断酒できるのだ」
という言葉は矛盾のはなはだしい逆説ではあるが、「酒害の認識は酒害者でなければ得られぬ」という事実が、
この言葉の真実を裏付けてけれるのである。



♠87.酒害の恐ろしさは
酒害者にならなければわからない ♥


酒を飲んだことのある全ての人は、酒害者になるのではないだろうかと、ビクビクしながら飲んだなどという人はいない。
そして腕が上がってきた時「酒に強くなった」と自慢はしても「アルコール耐性がついてきた。
酒害にかかったのだろうか」などと心配する人など殆どいない。
そして、更に益々強くなって、酒量が増え、あちこちに迷惑をかけるようになり、
誰の目にも酒害者になったとわかる頃は、今度は、酒害者特有の拒絶心が強くなって、
自分の酒害を認識しようとしなくなる。
酒が飲めなくなったり、食べ物を吐くようになったり、妻子に逃げられてやっと気が付くのが普通である。
病気の治療は「早期発見」が大切だと言われる。
しかし、こと酒害に関してだけは、この「早期発見」がなかなか難しく、精神的にも、肉体的にも、
社会的にも問題が多発してきてやっと発見されるという難しい病気ではある。
まことに恐ろしい事であると言わねばなるまい。



♠88.断酒例会は宝の山、
しかし通い続けなければその宝は見つからない ♥


断酒例会とは、会員同士の体験談以外何もない。
そして体験談とは自分の「心の棚おろし」をすること意外何もない。
だから、体験談というのは、もともとは他人に聞かせるのではなく、
自分がもう一人の自分に語りかけるものなのです。
即ち、酒害者の自分が酒害者の自分に、これからの自分について語ったりすることなのです。
それを聞いている人も、その体験談に感動し、共感し、おのおのが自分の「心の棚おろし」をするのが断酒例会なのです。
しかし、例会に参加しても、最初のうちはなかなか自分のことを素直に言うことができず、
まして他人の話を素直に聞くことなど至難の技なのですが、
回を重ねる毎に、自分の過去の罪がよく見えるようになってきますし、
素直な気持ちで他人の体験談を聞くことができるようになります。
そうなると、他の人の話の中にキラリと光るものが見えてきます。
これが例会で捜し求める宝石なのです。



♠89.反省はしても後悔はするな、しかし
実行なき反省なら後悔にしかすぎない ♥


「今度こそ止めようと思ったのに、気が付いたら、また病院のベッドの中。
思えば、あの時あいつに会わなければ・・・」と、頭を抱えて悔やんでみても後の祭り。
考えれば考えるほど、あの時あいつにあった不運が恨めしい。
そしてあいつの強引な誘惑がなかったら・・・云々。
失敗を後悔することは誰でもできる。
それは過去を振り返っていればいいからだ。
これでは、他を責めるか、自分を責めるかだけで、何の発展もない。
昨日の失敗はもう去った。
これからどうすればよいのかと考えよう。
反省とは二度と失敗を繰り返さないための対策を立てることである。
即ち将来への展望なのである。
しかしどんな立派な反省をしても、それを実行しないのであれば、何の意味もないし反省したとは言えないのである。



♠90.断酒して初めて見えるひとの道
(例会とは人生を学ぶところ) ♥


飲んで飲んで、仕事も駄目になり、家族もあきれ果てて逃げてしまった。
たった一人何時までもがんばってくれた母親も、心配しながら死んでしまった。
こともあろうに、この親不孝なアル中息子、母親の葬式にも出席せず飲んで歩き、夜中に酔っ払って帰ってきて、
忠告をする親戚に反抗して、仏壇を壊すなど大暴れ・・・。
このアル中男が、どんな風の吹き回しか断酒会を訪ねてきたのが今から六年前。
無口で不気味な感じのこの人が、毎日毎日断酒しているうちに、
明るく素直な人柄と変わってゆく過程は目を見張らせるものがあった。
多くの会員も彼の人柄にすっかり惚れ込んで、彼の子供を彼に合わせる運動を始め、
遂には奥さんの復縁まで成功させてしまったのである。
今、ある会の役員として、酒に苦しむひとため活動している彼がポツリと言った、
「がむしゃらに例会に通ってごらん。そのうちに人の道が見えてきますよ」と。



♠91.豊かだから与えるのではない、
与えるから豊かになるのだ ♥


「自分の頭のハエも追えないのに、他人様のハエなんか追えるもんですか」と、
酒害相談をすることを嫌がる会員もいるものです。
何年か断酒して、それからやおら酒害相談でもやろうなどということは本当は至難の業であって、
大方は途中で挫折してしまうのがオチなのです。
酒害相談とは、酒で困っている人、またはその家族の一段高いところからお説教をしたり、ああしなさい、
こうしなさいと支持を与えることではないのです。
その人達の話を同じ平面に立って聞いてあげ「私はこうでした」と自分の体験を話すだけでよい。
問題は、来談者の苦しみをわが苦しみとして感じられるかどうかであって、何年断酒しているかどうかではないのです。
お互いに裸になって泣きながら自分の体験をかたり、泣きながらそれを聴くとき、お互いに心が豊かになり、
お互いに断酒をしようという気持ちになれるのです。
心の財宝は分け与えれば与えるほど増えてゆくものなのです。



♠92.断酒とは口や頭でするものではなく、
足でするものである ♥


北海道断酒連合会では数年前から「行動する断酒」ということを重点目標として活動してきました。
すべての物がそうであるように、断酒というものも「実践すること」が何よりも重要であることは言を待ちません。
口先だけで「断酒します」といって、いつの間にか酒魔のとりこになっている人。
アルコール依存症に関する本を次から次と読破し、医者に負けないくらい知識を持ちながら、
なかなか酒をやめられない人・・・。
これらの人々には実践の伴わない単なる「断酒願望」と「断酒理論」しかないから、
なかなか酒の魔力を断ち切れないのではないかと思います。
「断酒は回っている独楽のようなもの」とか「断酒は水の流れに似ている。
流れる水は苔むさず、よどんだ水は腐っている」とかいろいろ言われるように「断酒のコツは例会を休まないこと、
多くの断酒の友を作ること、多くの事業(大会、研修会、講演会など)に参加すること」
と断酒に成功している人たちは異口同音に言います。
ダンスと断酒は足でするものだということを駄洒落でなく本気で考えることです。



♠93.断酒の危機五態
我慢の断酒 ♥


昔から「三日坊主」という言葉があります。
三日目頃から決心が崩れる様子を言ったものですが、断酒も正に「三日断酒」が非常に多いのです。
壁に「断酒」と張り紙をして頑張ってた人も、四日目にはその張り紙をこっそり外したなんていう話はざらです。
連続飲酒していたひとが断酒して48時間後(三日目)から禁断症状が現れ、
飲酒欲求が急激に高まることは医学的に説明されています。
だから、この「三日断酒」も病気の一種だと理解はできます。
だからといって、病気だから三日目頃から飲みだすのは仕方がないことだといっていたのでは、
何時までたっても断酒はできないことになります。
最近はこの禁断症状を追える薬も開発されてきているから、この第一の危機を乗り越えることも容易となりました。
しかも、病院に入院した人は、物理的にも酒が手に入らないのだからこの点も心配はありません。
いずれにしても、どんな重症なアルコール依存症の人でも一日だけなら飲酒を我慢できるし、
昨日の我慢よりは次の日の我慢のほうが楽になることも事実です。
だから、私達は「明日は飲むかもしれないが、今日一日断酒しよう」というのを断酒の大基本にしている訳です。
次の日も又「明日のことはわからないが、とにかく今日一日だけ断酒」ということを続けていけば必ず
「生涯断酒」は成功することになるのです。
しかし人間の我慢ほど当てにならないものはありません。
一週間も一ヶ月も一年も我慢を続けなさいということは、どだい無理な話であることも事実。
いつか爆発することは必定です。
とするならば我慢をしないで断酒する方法はないものか・・?
あるのです。
断酒会に入会し、例会に通うことです。
アルコールによって歪んだ心は非常に自分に甘くなっていますから、
我慢するなどという高度の心の働きを持続することは大変なことなのです。
それが、同じ悩み持つ人たちが集まって、体験を話し合っていると、不思議なことに、
酒を飲みたいという気持ちが消えてしまい、我慢する必要がなくなり、すがすがしい気持ちになってしまうのです。
ここに、断酒会に入らないで、ひとり肩を怒らして頑張っているひととの大きな差があるわけです。



♠94.断酒の危機五態
不安の断酒 ♥


だれだってこれから初めて断酒しようとする時、
「自分にできるかしら」という不安が心のどこかにあることは事実でしょう。
確かに、AさんもBさんもこの間退院したばかりなのにもう再入院してしまったし、MさんもNさんも、
すでに入退院を5回も6回も繰り返しています。
「自分もそうなるのではないだろうか」と考え込んでしまうのは無理もないことなのです。
しかし、断酒会に参加して御覧なさい。
みんなニコニコとして断酒生活を楽しみ「もう1年になりました」
「皆様のおかげで3年経ちました、ありがとうございます」という言葉を聞き、
その姿を見たら「オレでもやれそうだな」と思うに違いありません。
そうなのです。
アルコール依存症とは「酒をやめられない病気」なのだから、
酒を飲んで入退院を繰り返している人がいても不思議なことではなく、むしろ当たり前のことかもしれません。
しかし、前項で述べたように「一日断酒」をすることはできる訳ですし、それを一年も二年も繰り返し続けている人もたくさん
いるのです。
即ちアルコール依存症患者は、誰でも失敗の危機があると同時に、誰でも成功の可能性も持っている訳です。
入退院を繰り返している仲間を見ると不安になりますが、断酒会で成功している人たちと友達になると自信が湧いてきます。
とにかく、断酒会の例会に通うことが大切だということがおわかりになったと思います。



♠95.断酒の危機五態
自慢の断酒 ♥


断酒して一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月と過ぎてゆくと、自分の努力、成功を誰かに自慢したくなる時期が来るものです。
しかし、客観的に考えると、人格が低下し、社会の底辺をうごめいていた酒害者がやっと数ヶ月止めたからといって、
社会的には当たり前のこと(或いはまだそれ以下かも知れません)をしているだけであって、
本人の、石にかじりついて頑張っているという姿は、社会一般の人には見えないのが普通なのです。
ですから「オレがこんなに苦労しているのに・・・」といって奥さんや、同僚にあたりちらすようなことはやめましょう。
「なにさ、やっと当たり前のことができるようになったくせに・・・」という言葉が帰ってくるのがオチです。
そして、それが酒に走る原因となることがありますから、くれぐれもご注意ください。
その点、断友はしらずしらずのうちにこの事の重大さを認識しているので「三週間も経ちましたか、
よく頑張れましたね、よかったですねえ」とか「もう六ヵ月ですか、これはあなたにとって世界新記録ですね。
よかったですね」とその努力を認めてくれます。
これが、「よし、又、明日から一日断酒で頑張るぞ」という気持ちを引き出してくれる訳です。
断友はありがたいものですね。



♠96.断酒の危機五態
不満の断酒 ♥


断酒が、一年二年と経ってくると、「一に断酒、二も断酒、三、四はなくても五に断酒」
という猪突猛進型の時代は去って、周りが見えてくるようになります。
このような時期になると、断友の言動に批判的になったり、失敗者に対し強い批判、攻撃をしたり、
断酒会の幹部の考え方に反対したり、遂には断酒会そのものに批判的になり、会を去っていく人がいるものです。
私たちは会を去ったら終わりです。
「独り断酒」が如何に難しいかを一番知っているのが断酒会の会員である筈なのに会を去っていくとは・・・。



♠97.断酒の危機五態
傲慢の断酒 ♥


会を去っていくもう一つの原因として、傲慢の心理があります。
全国の断酒会の共通の悩みとして、五年前後の会員が非常に少ないことが、全断連の統計で判明しております。
ちょうどこの頃になりますと、「別に断酒会が直接的に自分の断酒を支えてくれているとは思えない。
断酒継続しているのは自分の意志の力であって、毎回例会に出席する必要はないのではないか」
「断酒会に卒業があっていいのではないか、自分ひとりで十分断酒していく自信がある」
「会は去らない。会費だけは払うから例会参加は勘弁してください」とかいろいろな理由をつけて
会を去っていく人が多くなるのです。
又、「あの人の断酒はオレが引き受けた。私が必ず立ちなおさせて見せます」
などと言って親切の押し売りをするのもこの頃です。
「酒害者を治してやるなどという人がいたら、それはその酒害者よりももっと重症の精神病患者である」
といわれているように、医者も、家族も、断酒会だって酒を止めさせることは出来ないのです。
酒をやめさせることができるのは唯ひとり、それは酒害者自信であることをしっかり認識して、
いやしくも断酒家たる者は間違っても「オレがあの人の酒を止めさせた」などと言ってはいけないのです。
そして、真の断酒家たるものは、断酒継続が三年、五年と進むにつれて、益々謙虚になり、
自分が酒を止めていられるのは断友、即ち酒害者によって支えられているのだという感謝の心を忘れずに、
ご恩返しさせていただく、即ち、自分も他の酒害者を支えてあげなければならない使命感を持たねばならないのです。
そのためには、断酒会を辞めることなく、何も語ることなくても結構、
にこにこと笑いながら例会に参加していることこそ断酒道の極意かもしれません。



♠98.断酒したからといって酒の魔力がなくなるのではない、
酒の 魔力は他からくるのではなく、自分の心の中にあるものだ ♥


人間の本性は善なのか、悪なのかという議論がある。
いわゆる性善説と性悪説である。
人間の赤ん坊は純真無垢であり、成長するにつれて悪行を覚えていくのだとするのが孟子の唱えた性善説。
これに対して荀子は人間の本性は利己的である、赤子は平気で他人に迷惑をかけるではないか。
それが親や社会の教育によって善行を習うものだ。
としたのが性悪説である。
どちらの説をとろうと、それはその人の考え方次第だが、
いずれにしても私たちに心の中には善と悪の心が渦巻いていることだけは確かであり、
酒を止めようか・・・、こっそり一杯やろうか・・・と常に葛藤があることはまぎれもない事実である。
だから、酒の魔力というのは、他から襲いかかってくるものではなく、
実は自分の心の働きであることを銘記しなくてはならないのです。



♠99.例会で得た宝物は消失もしないし盗まれもしない、
それどころか他人に与えれば与えるほど増えていく ♥


断酒例会の中には多くの宝が隠れている。
入会当時はその宝物を見つけることができない人が多いが、何回も通っているうちに、
キラリ、キラリと光り輝く宝物が見えてくるから不思議だ。
それは、ぐさりと胸に突き刺さったり、感動のあまり涙がポロリと頬を伝ったりしたときに
断酒の宝物として深く心に刻まれる。
この宝物は断酒が続いている限り消えることはないし、誰かに盗まれるということもない。
それどころか、その感動、共感の心を素直にわが体験に重ねて語るとき、それを聞く断友が、
その話の中にもう一つの宝物を見つけるかもしれない。
そして、その宝物は益々自分の心の中に刻み込まれて、強く光り輝く宝となって断酒継続の糧になってゆくのである。



♠100.愛を求めているうちは酒はとめられない、
愛することに目覚めれば酒は止められる ♥


家族に対してなんだかんだと文句を言いながら、等のご本人は動こうとせずに酒を飲んでいる。
酒害者はみんなこのような歪んだ性格なってしまう。
自己中心で依存心が強く、他人のことなど考えられないようだ。
このような子供の心しか持っていないような酒害者でも、フト「家族にすまない」とか
「世話してくれる人にすまない」とか言って飄然と断酒の決意をする人がいる。
この「自分を愛するごとく他人を愛する心」を他者愛といっていわゆる大人の心である。
しかし、この大人の心が育ったからといっても生涯断酒をするにはまだ弱い。
断酒道の極意は他の酒害者に尽くすことであり、これを親の心という。
即ち、わが身に多少の犠牲はあるが、それをいとわず「東に酒で苦しんでいる人があらば手を差しのべ、
]西に主人の酒で苦しむ家族あらば、飛んでいって励ます」・・・。
こうなれば生涯断酒が完遂できるのではなかろうか。
「断酒道とは尽くすことと見付けたり」



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