♠1.断酒道五心 ひとの体験談を自分のことのように聞く 素直な心 ♥


「少し酒を慎んだら・・・」「君はもう酒を止めなければ一生駄目になるよ・・・」
私はどれくらい周囲の人に言われたことでしょう。
酒のために傲慢で、自己本位になっている私は、そんな忠告に耳を貸す筈はありませんでした。
酒害者が、長年の酒によって損なわれていく心の働きのうち、最も大きく変化していくのが、素直な心だといわれています。
幸い私は、断酒会に入って、この素直な心をとりもどしました。
自ら酒害者であると認識することもできました。
しかし、他の人の話を、間違いなく正しく聞けるようになったかどうかはいまだ疑問があります。
今後は、その人の気持ちになって話しを聞けるよう努力したいと思っております。


♠2.断酒道五心 自分の過去の失敗を常に忘れない 反省の心♥


心が素直になってくるにつれて、私は自分の過去の悪業が本当に恥ずかしくなってまいり参りました。
酒を飲んでの失敗の数々は、今思い出しても顔が赤くなり心臓が止まる思いです。
しかし、私の過去は酒を止めたからといって、もう一度やり直すことはできません。
とするならば、償いをしながら一生送るつもりでなければ真の断酒道は歩めない訳です。
私は死ぬまで「すまなかった」「すみません」と言い続けたいと願っています。



♠3.断酒道五心 ひとりでは立直ることができないという 謙虚な心 ♥


私が酒を止められたのは断酒会のおかげです。
断酒会とは、酒を止めたいと思っている酒害者の集団です。
それらの方々と話し合い,支え合い、高めあって今の私があることを十分認識しております。
特に新しく入ってこられた方々には多大の刺激を与えていただき、たくさんの教訓を得ました。
この断酒寸言集「山びこ」は、みんなこれら新入会員の叫びであり、願いであります。
私が断酒哲学を学び続けることができるのも、全くみなさんのおかげだと思っております。



♠4.断酒道五心 止めさせていただいていますという 感謝の心♥


おかげを賜っているのは、断酒の友だけではありません。
私はこの断酒道に導いてくれたのは、私の妻、娘、そして勤め先の上司、同僚であります。
そして私をして断酒開眼させてくれたのは行政、医療関係の多くの先生方でした。
私が今、社会人として人並みの生活ができるのも、私を取りまくこれら多くの人々のおかげと思っております。
ありがとうございます。


♠5.断酒道五心 酒をやめたくても止められないでいる人々への 奉仕の心♥


私はこれら多くの人々に感謝をする具体的な方法は、唯一だと思っております。
それは、酒で苦しんでいる多くの人々に立ち上がるチャンスを与え、それに手を貸してあげることです。
そして、その喜びの顔を見るまで、何ヶ月でも何年でもお手伝いをさせていただきたいと願っております。



♠6.断酒は自ら酒害者と認めることから始まる♥

ç 誰だって酒害者になるかも知れないと、心配しながら酒を飲みだす人はいません。
気が付いてみたら、酒害者になっていたというのが実状ではないでしょうか。
しかも、この病気は「自分が今、どんな状態にあるのか」という認識ができなくなり、ついには、
自分の過去を忘れることは勿論、現在の日、時、場所すら判らなくなってしまう恐ろしい病気なのです。
即ち、飲み始めは勿論のこと、酒を飲めば飲むほど、自分は酒害者でないと言い張る一種の精神病になってしまうのです。
だから、周りの人が病気であることを認めさせてやらねばならない訳で、本人が何とか病識を得ることができたら、
酒害の治療の半分は終わったと言われるくらい、大切なことなのです。
真に皮肉なことに、自分は酒害者ではないといって飲み続ける人は酒害者というレッテルをはられて一生送らねばならないのに対し、
自ら酒害者と認め断酒に努力している人は、それが未だ医学的には酒害者かもしれないが、
周りの人は「もと酒害者だった人」とすら言わなくなるのです。


♠7.はじめ、ひと酒を飲み、やがて、酒酒を飲み、ついには、酒人を飲む♥


いつ誰が言い出したのかその出展は詳らかではないが
初則人呑酒 一盃人飲酒
次則酒呑酒とか又は 二盃酒飲酒
後則酒呑人 三盃酒飲人
という文をあちこちの書物に見かけます。
勿論、これは酒を飲んで酔いつぶれていく過程(急性アルコール中毒)を表現したものと考えられるが、連日の飲酒による失神が、
やがて、時間、場所、自己認識をも失っていくアルコール依存症(慢性アルコール中毒)になっていく
長年月の過程をも描写しているようにも思われて、人間と酒とのかかわり合いの古さと深さに、改めて驚嘆せざるを得ません。
そして、この寸言こそ断酒を学ぶ上の基本であると識者も指摘しており、断酒の誓いの第一条に
 私たちは、酒の魔力に捉われ、自分の力ではどうしても立ち直ることができなかったことを認めます。
と謳わしめた所以なのです。


♠8.酒害にかかったことは何も恥かしいことではない、それから  立直ろうとしないことが恥かしいことなのだ♥


アルコール依存症を治すために、入院したり、断酒会に入ったりすることを恥ずかしがる人が多いものだ
家族は勿論、世間一般の人々も、アルコール依存症患者を軽蔑する風潮は残念ながら無くなっていない
確かに、アルコール依存症になると、心が歪み人格が変容し、道徳心が低下して社会生活に乱れが生じ、
周囲の人に迷惑をかけることは事実である。
それは、病気によって生ずる症状なのに、世間一般の人はそう理解してくれずに、その人の性格、人格の故だとするところに問題がある。
この病気は、特殊な性格の持ち主だけがなるというのではなく、酒を飲み続けていれば誰でもかかる病気なのだから、
別にかかったことを恥ずかしがる必要は全くない。
恥ずかしいといって断酒会入会を拒んで飲んでいるほうが、本当は恥ずかしいことなのに、
気が付かないところにこの病気の恐ろしさがある。


♠9.断酒の道ははるかに遠い、しかしその入り口はすぐ  そこにある、それは今日一日断酒することである ♥


新入会員の中には、ときどきこう言う人がいます。
「職場がうるさいので、退職までは断酒会に入って酒を止めます。・・・・」と。
今まで何十年と飲み続け、酒を飲むのが生きがいであった吾々です。
「酒をとり上げられるくらいなら死んだほうがましだ」と真剣に思っていたわれわれですから、
今日から一生酒を断つという決心は、清水の舞台から飛びおりる以上につらいことであり、
将来の夢も希望も無くなって、死にたい気持ちになるのも無理からぬことと思います。
この難行苦行を死ぬまで続けなければならないのかと思うと、
つい決心が鈍り「断酒なんてやめた」とばかり又、酒を口にしてしまいそうになります。
「千里の道も一歩から」と言います。断酒も60歳まででよろしい。
いや、一年でもよいし。一ヶ月でも結構。
しかし、どの場合でもまず今日一日の断酒からスタートです。
そして明日もまた、「今日一日断酒」をやればいいのです。


♠10.例会には家族も参加しよう、アルコール依存症は家族の病気だから ♥


酒害は、その人格に及ぼす影響が長期間にわたり、ジワジワ悪化するものだから、家族の方は全く気が付かないというのが実状でしょう。
そればかりでなく、家族の方も徐々に巻き込まれて、酒害家族病ともいうべき心の病気を起こしてしまい、
どうにもならなくなって相談に来る頃には、完全な酒害ノイローゼにかかってしまっている訳です。
そして、中には、この酒害地獄から抜け出したくて「一生入院させておいて下さい」と病院の医師に頼んだり、
家庭裁判所へ離婚調停を申し立てたりする人も少なくありません。
しかし、この酒害家族病は、酒害者本人と違い、アルコールを飲んでいる訳ではないので早く治ります。
どうか一日も早く断酒会を訪ねましょう。
そこにはあなたの求めているすべての情報、すべての解答がいっぱいあります。
それは、酒害という病気に関する知識を得ることは勿論ですが、それが完治するものだと言う実証を、
例会の席上で目の当りにすることが、あなたにとってもっとも大切なことなのです。

♠11.格好よく断酒しようと思うな、うそのベールをぬぎ裸になろう♥
断酒会に新しく入ってきた人のほとんどが自分を酒害者だと認めたがらない理由のひとつに、
社会一般の酒害に対する誤解がある。
社会一般の人は、酒害者とは家もなく、職もなく、乞食同然の姿で、朝からベロベロに酔っている人のことで、
社会の敗残者と考えているようである。
だから、手が震えるようになっても頑迷に自分が酒害者であると認めたがらないし、家族もそう思わない。
入会と同時に「自分は酒害者です」と素直に認めた人でも、勤め先では「肝臓が悪い」「胃が悪い」とか言って、
なかなか酒害者であると言ってないようである。
中には、断酒会に入ったことを隠している人もいる。
断酒会に入ったことに何の恥ずかしさがあるのだろうか。
断酒するのにカッコのよさは却って邪魔である。
「身体が悪い」と言って逃れていても、四回、五回と言っていれば「もういいだろう」と回りの酒友が仲間に引き入れようとするもので、
カッコよく断酒しようとして、カッコの悪い失敗に陥ることが多いのである。


♠12.断酒できたと思ってはいけない、まだ断酒している最中なのである♥
コップに半分の水が入っている。これをみてA、Bの二人が言った。
A「もう半分しかないのか」
B「まだ半分もあるのか」
同じコップ半分の水に対する考え方でさえ全くこのとおりです。 断酒についても同じことが言えます。
C「もう三年も断酒したのだ」
D「まだ三年しか断酒していないのだ」
酒害の治療法は唯一、「断酒」しかないことはいまや明白な事実。
しかも、これは「生涯断酒」を完成しないことには全く断酒の意味を失ってしまうものであることも明白。
とするならば「断酒三年」なんてほんの入り口。
これから、五年十年と続けなければならないのである。
私たちは、常に「もう何年やめた」ではなく「まだ何年しか止めていない」と考えていなければいけないのである。



♠13.酒の誘惑を断つ苦労は、飲んでいる酒を断つ苦労に比べれば、物の数ではない♥
少なくとも断酒会員であるならば、「酒を飲みたいなあ」と思ってから、
酒を口にするまでには「思い切って酒を飲もうか・・・」「いや、この一杯を飲んだら、
又酒地獄に逆戻りすることは何度も経験済みではないか、止めておこう・・・」
「しかし一杯ぐらいならいいだろう、明日から、又、断酒すればいいんだ・・・」と
右せんか、左せんかという心の葛藤があるに違いない。
この葛藤は、短くとも数秒間、長ければ数時間に亙るかもしれないが、この自分の心の悪魔の誘いにまず克たねばなりません。
もし、この心の葛藤に負けて酒を口にするならば、間違いなく酒地獄に陥り、そこから抜け出すのに、
数日、いや、数ヶ月を要することは火を見るより明らかなことなのです。
この長い、苦しいトンネルに入るよりは、今の数秒、今の数時間の自分の心の悪魔と闘って克つことが絶対有利なことなのです。
即ち、己の心の悪魔に克つ「克己心」こそ、断酒継続のもっとも大切な基本なのです


♠14. 酒を止めただけでもとへ戻るものではない、償いをしながら一生送るつもりでなければ、真の断酒はできない♥
断酒会に入会して断酒できるようになると、いつの間にか断酒会を去る人がいるものです。
これらの人の殆んどが断酒に失敗してしまうのですが、中には一人で断酒を続けている人もおります。
この独り断酒をしている人を見ていますと、意志強固ではありますが、未だ酒害者特有の歪んだ性格をそのまま残している方がおります。
即ち偏屈で、心がせまく、人間愛に欠け、わがまま、自己中心的であります。
このような人をアメリカでは「ドライアルコホリック=酒を飲まない酒害者」と呼んでいます。
それに比べ、断酒会の例会に欠かさず出席している人達は、何ヶ月か過ぎた頃から、酒で苦しんでいる人々や、
その家族の相談相手となることが、
自分の罪の償いとなると考えて活動しているうちに、広い豊かな心が芽生え、友愛と奉仕の精神が全身から溢れ出るようになります。
こうなって始めて真の断酒ができているのだと思います。



♠15.断酒会なくして断酒なく、断酒なくして己なし♥
今日も酒のため命を失った酒害者の知らせが入ってきた。
それを聞いた多くの会員は「止めていれば良い男、良い夫、良い人だったのに・・」と慨嘆する。
酒害者には節酒は出来ない。
最初の数日は二、三合で収まっているが、一週間もしないうちにもう一升酒になってしまう。
酒害者にとっては酒を飲むということは死を意味する。
だから、酒害者を慢性自殺者と称する医師もいる。
又、酒害者と診断された患者の死亡率は、ガンと診断された患者の死亡率を上回り、その平均死亡年齢は、
他の精神病患者のそれが毎年上昇しているのに、酒害者の場合はこの数年約五十歳という線を続けているという。
とするならば、酒害者であるわれわれは、死にたくなかったら酒を止め続けていかねばならない。
止めるのに独りでは難しいと言われる。
つまるところ、われわれは断酒会に入って、断友と交流し、支え合い、援け合って断酒し続けなければ生命を保つことができないと言うことである。
即ち、断酒会即自分の命という訳である



♠16.断酒のコツは例会を休まないこと、どんな薄い紙でも 何枚もはり合わせれば、いつかは硬い丈夫な板になる♥
Aさんという会員がいました。
この人は、奥さんが酒害相談に来られ「先ず家族が例会に通って酒害家族病を治しましょう」と言う
アドバイス通りに約二年間例会通いをしてから「例会から帰ったら一杯のませますから」と騙し騙しつれてこられた方です。
Aさんは「私は酒は止めません。帰ったら一杯飲ませてくれるというから来てるのです。
私は他人様に迷惑をかけておりません。
酒を止める必要は全くありません」と言いながらでも奥さんともども例会に通っていました。
そのうちに、いつ止めたのか本人も判然と記憶してないうちに、酒に手を出さなくなりもう五年になります。
今では相談部の理事として、自分の体験を静かな口調で話すのです。
「酒を止めたければとにかく例会にいらっしゃい。
そして、例会を休まないこと。
酒を飲んだら飲んだで結構、自分の心にウソは言わないこと。
これだけでいつか断酒できますよ」と。



♠17.安心それがわれわれのもっとも身近な敵である♥
昔から、「勝って兜の緒を締めよ」とか、「治にいて、乱を忘れず」或いは「失敗したときの反省は易いが、
成功しているときの反省は難い」などと、平穏無事のときの心構えを説いた寸言は多い。
断酒を志して断酒会に入会した当時は「酒を飲みたいと思いません」という人が多く、
断酒の意志が飲酒要求を上回っているのが歴然としているのですが1ヶ月たち、
半年、一年を過ぎる頃から、酒に手を出す人がボツボツ現れるのが現実なのです。
いくら這い上がろう、這い上がろうとしてもズルズルとぬかっていったあの酒害地獄の苦しさ、
いまわしさも、断酒安定してくるにつれて「のど元すぎれば熱さ忘れる」の例え通りに、人間の記憶から去っていくのです。
私たちは、酒を忘れることはあっても、酒ゆえの悪業を忘れてはいけないのです。
その忘れそうな初心をかき立てるために、私たちは断酒例会に出席するのです。
私たちは「もう何年断酒した」と考えてはいけないのであって、常に「まだ何年しかたっていない」と考えなければいけないのです。



♠18.断酒の先輩は先生ではない、新入会員こそ真の先生である♥
断酒会に入って一年ぐらい経った人にとっては、五年、十年と断酒している先輩は、
確かにこの道の師と仰ぐべきであるということは異論を挟む余地はない。
しかし、断酒というものは「今日までできた」のであって、「だから明日もできる」という保証は全くないのです。
十年選手だって明日酒害者に逆戻りする可能性は十分あるのです。
だから、「先輩は先生ではない」と言う言葉は「先輩は師と仰ぐに足らぬ」と言う意味ではなく
「十年選手になったからといって先生ぶったりしてはいけません」という意味を言っているのであって
「新人会員を師と思え」と言う言葉を強めるための伏線的な言葉なのです。
私たち酒害者は、上を望んであせってはいけないし、下を見下して思い上がってもいけない。
常に反省の心を忘れず、初心に帰っていなければ必ず失敗すること必定です。
新入会員(酒害者)の姿に自分の過去の姿を重ねてみることによってのみ、
酒害者である自分が救われるのだと言うことを深く知らなければならないのです。



♠19.意志が弱いから酒害者になったのではなく、酒害者になったから意志が弱くなったのだ♥
入会当初「私は意志が弱いから、酒が止められなかったのです」と体験発表をする人がおります。
家族も同じく「主人は意志が弱いから、これからが心配です」と言うのです。
本当に意志が弱いから酒害者になったのでしょうか。
そして、意志が弱いからこれからも酒を止められないのでしょうか。
それならば、断酒会の人たちは意志が弱いのに頑張っているのでしょうか。
一年も二年も、酒の誘惑に打ち克って頑張っているということは、相当強固な意志力がなければできるものではありません。
考えてもごらんなさい。断酒会の人たちだって、何ヶ月か、何年か前は、意志の弱い、どうにもならなかった酒害者だったのです。
それが、みんな意志の強い断酒家になっているのは何故でしょう。
それは「意志が弱いから酒害者になったのではなく、酒害にかかったから意志が弱くなった」からなのです。
誰だって、酒を止めてさえいれば意志が強くなります。
しかし、急には強くなりませんから「一日一日断酒」で頑張りましょう。



♠20.アルコールによる被害者意識を捨てて、社会に対する加害者であったことを認めよう♥
精神病院に入院してきた患者さんに「あなたは何故入院したのですか」という質問をすると、
(酒を飲みすぎたから)とか(酒のため肝臓をこわしたから)或いは(ちょっとしか飲まないのに家族や上司に騙されて・・)という答えが多いものです。
実状は、酒を飲みすぎたため、心の健康を害し、対人関係にトラブルが生じ家族や職場で争いが絶えず、
借金で首が回らず、生活が不能状態になっているにもかかわらず、
酒が止められなくて飲み続けている状態から立ち直るため入院してきたのであって、
単に肝炎を治すためだけに入院したのではないのです。
このような方を「酒害者」と呼んでいますが、これを「酒の害を受けた者」と読むと被害者意識が強くなり、なかなか立ち直れないようです。
これを「酒を飲んで他人に害を加えた者」と読み直すことが正しい読み方であり、病識を得やすいと思うのです。



♠21.誘惑に負けるのは心のどこかでそれを求めているからである♥

ある例会でこんな話が出た。
「母が病気だというので実家へ帰ったが、私が帰ったとたん母は容態を持ち直して
『よく帰ってきてくれた。お前の好きな酒をとっておいたんだよ。さあ一杯』とコップですすめるのです。
こんな時、皆さんはどうするのでしょう」と。
確かに、これは誘惑かも知れません。
しかし、これは誘惑の外的な形であって、真の誘惑は、実はあなたの心の中にあるのです。
こんな時あなたの心の中には二つの思いが渦巻くに違いありません。
その一つは「私は入退院を三回もくり返した酒害者だ。
この一杯の酒は次の日の酒を呼び、再びあの酒害地獄に逆もどりするだろう。
今の気持ちを素直に話して断りなさい・・」と。
もう一つは『折角お母さんが、私のためにとっておいてくれた酒だ。
コップ一杯くらいはどうということはないじゃないか、明日からまた断酒すればいいんだ」と。
この第二の心の動きが誘惑の本能であって、悪魔のささやきなのです。
お母さんの言葉が悪魔のささやきでは決してないのです。



♠22.人間にはもともと酒害者になり易い性格などありえない、
そこにはアルコールによって歪められた性格があるだけだ♥


昔は、酒害者になるのは性格的な欠陥者が多いと信じられていたようです。
しかし、断酒会で活躍している人を見ると自主的で、寛容、冷静沈着で、愛情豊かな人が多いのがわかります。
一週間に一回の二時間ばかりの例会で、あの欠陥人間がこんなにも変わるものなのだろうかという疑問は
誰もが持つ素朴な疑問だと思うのです。
これは、人間にはもともと酒害者になるべき性格などはなく、依存心強く、我儘、情緒不安定などの性格は、
酒害による二次的な症状であるということが段々判ってまいりました。
そして、これらの症状は、断酒を継続することによって段々と消滅し、元の人格を回復していくことも判ってまいりました。
しかし、断酒を継続せず、時々酒を飲むような人は、酒害者特有の歪んだ性格がなかなか取れないことは当然です。



♠23.アルコール依存症は治る、
しかし何時でも自らの手で再発させることができる♥


アルコールを長年のみ続けていると、アルコールに対する精神依存、身体依存、耐性が形成されます。
この中の、身体依存というのは、身体から酒が切れてくると幻視、幻覚、手の振るえなどが現れる症状ですが、
これは入院治療で治ります。
又、「飲みたいなあ」と思う精神依存は断酒会に通うことで消滅していくと考えられますが、
アルコール耐性の変化は現在の医学では治すことが不可能なのです。
だから、いくら断酒していても、再び酒を飲みだすと、すぐ元の状態に戻り、再び病状が前より悪くなっていくのです。
このことを進行性の病気と言い、そういう意味ではこの病気は一生治らないと言えるのです。
しかし、酒を飲まなければ病気は進行しませんから、断酒ということはこの病気の唯一の治療法であり、
飲まないでいるということは同時に治ったといえるのです。
即ち、再発させるか、させないかは本人が飲むか、飲まないかで決まる極めて原因のはっきりした病気なのです。



♠24.われわれには禁酒の冷たさや節酒のみみっちさはない、
そこには断酒という力強さと爽やかさがあるだけである♥


この世の中から酒をなくして、他人の飲酒をも禁止したりすることを禁酒といいます。
自分の子供が自動車にひかれて死んだ悲しさのあまり、この世の中から自動車を無くせよと叫んでいるのに似て、
我がまま勝手な冷酷ささえ感じます。
節酒というのはほどほどに飲むとか、時々飲むとかいうのみ方で、これができれば禁酒だ、断酒だと騒ぐ必要はなくなります。
それ程この飲み方は難しく、アルコールのコントロールが出来なくなった酒害者にとっては至難の業と言わなくてはなりますまい。
それに対して断酒とは、自分の意志で酒を断つことを決め、実行することで酒との縁を切り、
普通の社会人として生活することをいいます。
そこには、力強さ、さわやかさ、幸福感が満ち溢れています。



♠25.真の断酒家は己に厳格であるが、
他に対しては寛容でなければならない♥


酒害にかかると脳が萎縮して、考え方が老人的になり、物忘れが激しくなるばかりでなく、
だんだん自己認識も甘くなり、我儘な赤ん坊的な性格になっていきます。
そして、自分の思いが通らないと、だんだん要求が激しくなり、攻撃的になります。
しかし、断酒会に例会を重ねていくうちに、だんだん自己客観視ができるようになり、自分に厳しくなるものです。
これらの道程において、人間の心は、主観と客観の間を行ったりきたりしますので、いろいろなタイプの性格に変容します。
          自己に       他人に
  酒害者   甘           厳
  入会時    厳           厳
  危 機   甘           寛
  断酒家    厳           寛

 断酒とは単に酒を止めただけでは駄目で人格の向上なくしては完成しません。
「己れに厳、他人に寛」という断酒道を歩みたいものです。



♠26.酒を止められない人を見たら、
それはきのうの自分の姿と思え♥


断酒会の例会に酒の匂いをプンプンさせながら参加してくる人がいる。
他の会員にとっては全く不愉快だし、例会も白けてしまいます。
しかし、よく考えてみよう。
その人は何故のんだのだろうか「それは酒害者だからである」。
では、その人は何故のみながらでも断酒会にきたのだろうか「それは酒を止めたいからである」
全く矛盾したこの二つの行動を多少の葛藤があったにせよ、やってしまうのが酒害者の酒害者たる所以であるが、
彼を取り巻く家族、友人、上司などは、それが酒害という病気の姿であると理解できないのである。
しかし、かつての酒害者であった断酒会員は違う。
彼のこの矛盾に満ちた行動を見ていると、何ヶ月か前の、何年か前の自分を見る思いがして身につまされるのである。
そんな酒害者でも、のみながらでもいい、断酒会に通っていれば、必ずや断酒できると信じているのである。
その人に温かい心で接し、長い目で見てやれるのである。
それは、自分が同じように先輩の暖かい、寛い心で支えられて断酒に成功したことがあったからである。
断酒会とはこんな会なのである。



♠27.失敗した人をゆるすかゆるさないかが問題ではない、
その人が自分を罰しているかいないかが問題なのである♥


断酒会には『酒を飲んだら云々』という罰則はない。
若しあるとすれば、それは断酒会としての機能を失っている。
断酒会とは、断酒できないで苦しんでいる人のためにこそあるべきものであって、
断酒ができている人の専用物ではないのです。
第一、断酒に失敗した人に対して、その人を責める資格が断酒会員にあるのだろうか。
今、断酒に成功しているかに見えるそれらの会員こそ(これから先、失敗しないという保証は何もないのだから)、
失敗者をいたわりながら自らを省みなければならない酒害者なのです。
酒害者であるという断定を下す最適の人は、酒害者本人であることがもっとも望ましいことであると同じく、
失敗者を罰する資格を有するのは、その失敗者自身でなければならないし、
その罰し方が浅いか深いかが問題なのです。



♠28.誘惑の本体は他にあるのではない、
それは自分の心の中にあるのだ♥


誘惑の第一は一連の飲んでいたときの社会環境です。
飲ん平仲間、行きつけの飲み屋等々。
私たちはこれらの悪い環境、習慣を断ち切らねばなかなか断酒は難しいものです。
「肝臓が悪い」「胃が悪い」などと言い逃れをしてはいけません。
「もう大丈夫だろう」「少しぐらいはいいだろう」と執拗に勧められると断る理由がなくなるからです。
そして、それではと『ちょっとだけ』と飲んだ日はなんでもなくても、次の日から本当の誘惑が始まるのです。
それは昨夜の酒友ではなく、「自分の心」の葛藤です。
「昨日はなんでもなかったではないか、それなら今日も少しなら大丈夫だろう・・・」と。
又、昔から『大きな石にはつまずかないが小さな石にはつまずき易い』と言われています。
私たちは、宴会など、人目のあるところでは我慢し通しても、その帰り道ひとりになったとき、
己の心の誘惑に負けることが多いものです。
断酒の敵は酒ではなく、己の心であることを銘記しなくてはなりません。



♠29.酒害相談は聞かせることではなく聞くことである


お酒のむな 酒のむなのご意見なれど
  酒呑みゃ 酒のまずにいられるものですか
あなたも 酒呑みの身になってみやしゃんせ
  一寸やそっとのご意見なんぞで
酒止められましょか  ねえさん酒もってこい
という歌が流行したことがある。
呑ん平といわれるアルコール依存症者はこの歌のとおり、周りのものがいくらわめこうが、
泣こうが、お説教をしようが、全く効果のないものです。
このよう呑ん平に酒を止めさせる方法として、酒害から立ち直った断酒会員が、
自分の体験を話してあげるのが最も効果的だといわれています。
しかし、その中に酒を止めなさい式のお説教が入っていたのでは必ず反発をくってだめです。
「酒を止めなければだめですね」というセリフを呑ん平自身に言わせることが大切なのです。
そのためには、聞き手にまわってその人に大いに喋らせることが大切です。



♠30.ひとりが着実に断酒を実行することが、
やがて万人の断酒家を生むことになる♥


断酒家というものは一年断酒したからといってそれは何の勲章にもならないことを知るべきである。
それは、今日飲んでしまうと、直ちに一年前に逆戻りしてしまうからである。
十年断酒した人も全く同じで、明日から確実に断酒が継続できるという保証は全くない。
世間の人も良く知っている。
あの人が断酒会に入って酒を止めているけれどいつまで持つことやら・・・と、
興味本位で眺めている人が多いものだ。
七人で始めた断酒会があった。
数ヶ月過ぎる頃から一人、二人と例会に来なくなり、とうとう会長まで飲みだしてしまい、会活動は停止してしまった。
一方、二人で始めた断酒会があった。
こちらも数ヶ月で一人が脱落し、残された一人は奥さんと二人だけの例会を数ヶ月持たねばならなかった。
そのうちに噂を聞いて、一人二人と入会する人が増え、現在では二十名を数える立派な断酒会となって活躍している。
断酒会とは一人でいいから着実に断酒している人がいれば、絶対火は消えないということである。



♠31.断酒は先輩と比べてはいけない、
自分の過去と比べてみるべきである♥


断酒一ヶ月くらいで、五年も十年も断酒している人のようになりたいと思っても無理な話です。
断酒には王道もありませんし、エレベーターもありません。
階段を一段一段こつこつ上っていかなければ、五年、十年の断酒家にはなれないのです。
それなのに、奥さん方の中には、「どうしてあなたは会長さんのようになれないのですか、
会長さんを見習いなさい」とまだ断酒一ヶ月のご主人にハッパをかける人がいるものです。
これでは、ご主人はどうしてよいか途方にくれ、「こん畜生・・・飲めば忘れるさ」と酒に走ることになるかもしれません。
そんなときには、酒を飲んでいたときの自分と現在の自分とを比べて考えてごらんなさい。
雲泥の相違があるでしょう。
決して他人と比べてはいけません。
断酒は、常に、酒を飲んでいた過去の自分と見比べながら、一日一日と自らの足で登っていくべきものなのです。



♠32.酒害者はひとりでもなれるが、
断酒家はひとりではなれない♥


断酒会に入って六ヵ月か一年ぐらい経つとだんだん例会に来なくなる人がいるものです。
一人では酒を止めることが出来なくて断酒会に入って、やっとの思いで止めたのに、
いつの間にか自分ひとりの力で止められたのだと錯覚するからなのです。
人間は生まれた時は、親や家族に甘えて成長します。
十二歳ぐらい頃から独立心が芽生え自分ひとりで大きくなったような錯覚に陥り生意気になるものです。
ちょうど断酒六ヵ月~一年はこんな期間のようです。
今日の自分があるのは、それまでどれだけ家族や多くの断酒の友の力があったか。
そのことに気が付かないということは、まだまだアルコール依存的性格から抜け切れていないということです。
こんな時こそ、原点に戻って考えてみる重要な時期でもあるのです。
他人の恩を感ずるか感じないかが、断酒家になれるか酒害者に逆戻りするかを決定するキーポイントになるのです。



♠33.酒に迷って人生の道草をくったからって慌てることはない、
断酒してゆっくり歩いていればいつか目標に到達する♥


断酒会に入会した当初は、自分の断酒のことだけで精一杯、どうして今日一日断酒するか、
毎日毎日、このことだけを考えている日々であろうと思う。
それが一ヶ月、二ヶ月と経つうちに、回りの会員や、断酒会のことなどが目に入る余裕が出てくるものです。
そんな時、自分の人格が、先輩に比べてあまりに低いので、少なからず絶望する人があるようです。
こんなときが、酒の誘惑に負けやすい、所謂「節」というものです。
あせってはいけません。
新入会員のあなたは、未だ病気療養中の身であることを深く考えてみてください。
何十年もかかった、アルコールによる人格の低下は、わずかに一ヶ月や二ヶ月で元の人格に戻れないものなのです。
しかし、悲観してはいけません。
あなたが、普通人いや、それ以上の人格者になる日が、目には見えないけれど毎日毎日少しずつ近づいているのです。



♠34.自分の物差しで他人を測ってはいけないし、
他人の物差しで自分を測ってもいけない♥


断酒会に入ってもなかなか酒を止めない人がいるものです。
家族に隠れて、会員に隠れてこっそり飲んでいても、だんだん昔のアル中に逆戻りしてしまい再び入院。
「今度こそ、アルコール依存症は進行性の病気であることがよく判りました」と例会で体験発表したのに、
三ヶ月も経たないうちに又もや失敗・・・。
「あの人は駄目な人だなあ」と会友の中には相談・援助はもうコリゴリだと投げ出してしまう人も出るくらい。
しかし、ちょっと待ってくださいよ。
投げ出してしまったあなたの昔はどうだった?
今のあなたの物差で彼を測ってはいないだろうか。
昔のあなただって彼と大同小異だった筈、そのときの心で彼を眺めてみませんか。
その反対に、失敗を続けているあなたも考えて欲しい。
あなたも自分は駄目な奴だと考えてはいないだろうか。
今断酒している人の物差で自分を見ないことです。
あの人達だって昔はあなたと同じだったのです。
がんばりましょう。



♠35.断酒の第一歩は酒害の自覚、次に必要なことは
断酒生活の利得への目覚め ♥


断酒の第一歩は、酒害を自覚することであります。
酒害の自覚とは、現に今自分が置かれている好ましくない状況のすべてが飲酒によってもたらされたものであり、
弁解の余地はないものだと認識した上で、飲酒をつづけていれば失うもの、
飲酒を止めれば失わないですむものへの判断が働くことであります。
このような自覚がなされつつも、なおかつ判断のできない人がいます。
その人の自覚が不十分だといってしまえば簡単ですが、
私は自覚の次に来るものへの賢い判断が欠けているのだと考えるのです。
すなわち、酒害に対する自覚だけでは不十分なのであって、
さらに断酒生活で得られるメリット(利得)に対する目覚めが不可欠なのだと考える訳です。
『断酒生活によってもたらされるメリットは飲酒欲求の昇華、らしさの回復、
生き甲斐の発見、社会参加など、数え切れません。
それは断酒家個々人がしみじみとした実感を持って体験するもの、
それは「人間として生まれたよろこび」に通ずるものでありましょう。



♠36.酒害は酒話害者自身が自分の治療者に
ならない限り治らない♥


酒害者は入院拒絶、断酒会への入会拒絶、家族や同僚の忠告を拒絶し飲み続けるものです。
これは自分が酒害者であるという認識を拒絶しようとする心理が酒害の結果として生まれるからなのです。
すべての病気は早期に発見し、早期に治療することにより治りが早いことは万人の常識であり、
アルコール依存症も同じことです。
しかし、アルコール依存症は、初期であればある程、
自分はもとより周囲の人もアルコール依存症であることに気が付かないし、
中期・終期になればなる程、症状の一つとして認識拒絶の心理が生まれるとすれば
真に不思議な厄介な病気であると言う外はない。
酒害への自覚が生まれれば、その治療の大半は終わったといえます。
即ち、酒害を治療するのは酒害者自身でなければできないからです。



♠37.酒害者の自己嫌悪の心が断酒の決意を生む ♥

「あなたはどうして酒を止める気になったのですか」と問われて明確な動機を答えられる断酒家は少ない。
断酒の決意は何処で生まれたのか判然としないのが普通のようです。
度重なる失敗の末生まれた人、医師の言葉で気が付いた人、家族の悲しみの姿がそのきっかけになった人、
身体の具合が悪くなって断酒を思い立った人等々、その動機は千差万別であり、
それが重なり合っているゆえになかなか明確にならないもののようです。
しかし、それらは一つの露頭であって、その根底をなすものは酒におぼれている自分への嫌悪であることは間違いない。
即ち、酒害による自己嫌悪の心は酒に逃避することによって紛らわすことが多いが、
時には断酒を決意する重大な動機にもなるのです。
「酒を止めようか」とフトもらしたら、そのチャンスを逃してはいけません。
「思い立ったは吉日」と言います。早速、病院か断酒会の例会を訪ねましょう。
例会がなかったら断酒会の会員を訪ねることが大切です。
二、三日後にのばすと、又拒絶新がわいてきて「自分は酒害者でないから止める必要はない」などと言い出すものです。
拒絶と自己嫌悪は酒害者の心の中を走馬灯のように去来するものなのです。



♠38.断酒会に話し上手は不必要、
みんなが聞き上手になることが大切  ♥


断酒会は体験談に始まり体験談に終わると言われている。
トツトツとした口調で喋る体験談はあっても、とうとうとまくし立てるお説教はない。
そしてじっと耳を傾け、自分のことのようにうなずきながらその体験談を聴く人はあっても、
その体験談を批判したり、嘲笑したりする人はいない。
真にすばらしい民主主義の団体である。
民主主義の基盤は自分の意見を述べることではなく、他人の言葉を「正しく聞く」ことです。
自分の考えだけを押し付け、相手の考えを受け入れないのは民主主義に反するし、断酒会にあってはならないことです。
断酒会には話し上手(話し好き)は不要です。
断酒会に必要なのは聞き上手がたくさん居ることなのです。
新入会員のへたくそな体験発表を我がことのように聞いてあげる謙虚さ、優しさが、
新入会員にほのぼのとした心を育て「例会に来てよかった。
この次も来よう」という気持ちにさせるのです。
先輩は喋りまくってはいけません。
正しく聞いてあげることは、一生懸命話して聞かせるよりよっぽど価値のあることなのです。



♠39.断酒会には、あの人はもう駄目だという言葉もないし、
俺は絶対大丈夫だという言葉もない ♥


入会して5年、何十回、何百回と失敗し、入退院を繰り返していた会員がいた。
「あの人はもう駄目だ、断酒はできないだろう」とその人の面倒を根気強く見続けてきた会員もさじを投げるほどであった。
本人も「俺は断酒会はやめる」と言いながらズルズルと例会に通っていたのである。
しかし、奥さんは家族会の人たちに励まされ、ご主人を見捨てることなく辛抱強く、彼の立ち直るのを待ったのである。
六年目に入った春から、彼の失敗は少なくなり、断酒の期間が長引くようになり、ついには立ち直ったのである。
七年目の今は、ある断酒会の要職について一生懸命、酒害者の世話をしているのである。
一方、十年近く断酒し、断酒会の中心人物として自他共に断酒家の模範とされていた人が、
突然、魔が指すように酒を飲みだし、アレヨアレヨという間に入院せざるを得ない状態になってしまった人もいるのである。
断酒会には「もう駄目だ」とか「絶対大丈夫」という言葉は存在しないのである。



♠40.心を裸にしなさいといっても裸になれる人はいない、
みんなが裸になっていれば誰だって裸になれるものだ  ♥


新入会員というものは屠所にひかれる牛と同じで、悲しげに、オドオドしているものです。
そのような人に対して「あなたはアル中です」と決めつけたりすれば必ずや反発があるものです。
たとえ、自分でアルコール依存者だと思っていても、そこはそれ、アルコール依存者特有の拒絶心がむくむくとわいてきて
「私はアル中なんかであるものか、あんた達とは違う。
もう例会なんか出るものか」と、口には出さないが、心の中でつぶやくのがオチです。
「裸になりなさい」と言うのも同じで、生まれて始めて断酒会に来て、
すぐ正直に自分の心を披瀝する人はめったにないものです。
みんなが服を着て、その人だけ裸になれというのは、
どだい無理な話であり銭湯のようにみんな裸になってニコニコ話し合っている所に、
洋服を着て入ってくる人はいないと同様に、
例会に出席している人が何度も聞き飽きたであろう体験談をしてあげることが新入会員を裸にするコツなのです。



♠41.医師も家族も断酒会も酒害者を治すことはできない、
しかし酒害を治せる唯一の人がいる、それは酒害者その人である  ♥


酒害のかかりかけの頃は、誰だって自分を酒害者と思う人はいないし、
まわりの者も別に酒害者だとも思わないものである。
まわりの者がやっと酒害にかかったかなあと思いだす頃になると、
今度は酒害者本人は自分は酒害者だと認めることに猛烈な抵抗を示すものである。
要するに酒害者は、初期・中期・終期のどの時期においても自分の酒害を認めないのがこの病気の特徴なのである。
だから、酒害者本人に自分を酒害者だと認めさせるには、医師も、家族も、断酒会も大変な苦労をするのである。
しかし、本人が心の底からそれを認めない限り、その苦労は水泡に帰するのである。
即ち入院・・退院・・又、・・入院を繰り返すのである。
だから、酒害を治す唯一の方法は、本人が酒害を認めることであり、
そうなれば酒害の治療の大半は終わったといっても過言ではないのである。



♠42.酒害の病識のないところには断酒はない、
そこには苦悩と涙があるだけだ  ♥


「断酒は自ら酒害者だと認めることから始まる」と言うのは断酒の誓いの第一条であり、
日本も、アメリカも、スェーデンも変わりはない。
即ち、断酒哲学の基盤である。
自ら酒害者だと認識し得なければ、断酒はあり得ないし、
たとえ、何日か酒を止めるとしても必ず飲みだしてしまうものである。
口でいくら「私はアル中です」と言っても心の底からそう思っていない人が断酒会員の中には多数いることも事実である。
しかし「門前の小僧習わぬ経を読む」の喩えのとおり、
例会に通いながら断酒の誓いを何回と繰り返しているうちに曖昧であった酒害の病識が確立されていくのである。
しかし、この病識が心の根底に大きく根を張るまではなかなか酒への執着は断切れないようである。
そこには、本人はもとより、家族の懊悩とあきらめの涙しかないのである。
正に、それはこの世の地獄そのものであると言う外はない。



♠43.なおったから飲まなくなったのではない、
飲まないでいるからなおっているのだ  ♥


「断酒会ではどうやって酒を止めさせるのですか」という質問はたびたび受ける。
時には「何か薬でも飲ませるのですか」という質問を受けて面食らうことすらある。
酒害の知識のない一般の人達は病院とか断酒会が酒害を治してくれると思うのも無理はない。
他のすべての病気を医者が治してくれるのだから・・・。
しかし、これとても病根を探り、薬で殺し又はメスで除去することはできても、
体力を回復したり、生命を保持し続けるのは患者自身であることは言を待たない。
即ち、終局的に病気を治すのは患者自身なのである。
酒害についていえば、その病根はアルコールであることは誰にでもわかることであるが、
その病根を除去できるのは医者ではなく、断酒会でもない。
それは酒害者本人だけである。
しかし、たとえ数年間酒を排除し得たとしても、他の病気と違い、酒害は治ったといえないのである。
なぜならば、治ったと思って再び飲みだすと、たちまちにして前より悪い酒害状態になることが、
多くの例により判然としているからである。
(酒害は進行性の病気である。)



♠44.断酒道には免許皆伝もないし達人もいない ♥

「もう五年も十年も例会にかよい、一滴も飲まずに断酒してきた。
そろそろ例会に通う必要もなくなったように思う。
社会的にも普通一般の人と同じに仕事もしているのだから、例会は勘弁して欲しい。」という会員もいるものです。
そして「断酒会に卒業があってもいいのではないか。
会員として会費は払うから卒業生として例会に出なくていいようにしたらどうだろう」とも言うのである。
果たして断酒に卒業はあるのだろうか・・・。
確かに五年十年と断酒のできた人は酒に対する関心はきわめて薄くなることは事実だが、
それと比例して断酒に対する関心も同時に薄くなるものなのです。
酒が欲しくないのだから断酒を考える必要はなくなる訳です。
しかし、もと酒害者であったわれわれはたとえ十年断酒していても
一滴の酒がもとの酒害者に逆戻りさせることを誰よりも十分知っています。
だから、私たちは自分の断酒に対する関心を高めるためにも、酒に悩む人達の断酒に関心を持たねばならないのです。
断酒道の極意は後あとからつづく自分と同じ酒害者を助けることにあるのです。



♠45.酒害者というものは99%酒害を認めていても、
1%の理屈がつけばそれだけで酒を飲むものだ ♥

酒の飲み始めは誰だって酒害にかかるかもしれないなどと思いながら飲んではいないし、
何年も飲んで飲んで、相当の重症の酒害者になっている時ですら酒害の認識が極めて少ないのがこの病気の特徴であり、
精神病たる所以でもあります。
しかし、病院で治療を受けたり、断酒会に入会したりして酒害の恐ろしさを知るにつけて、
少しずつ病識を得る筈だけれど、100%自分の酒害を認識するのには何年もかかるものなのです。
断酒した当初は単に酒を飲まない酒害者であることを深く認識しなければなりません。
酒によって歪んだ心は一朝一夕では治るものであはりません。
この歪みが不平、不満、イライラを呼び、理屈をつけて酒に走らせるのです。
断酒会に入会した人の半数以上がいつか酒を口にしてもとの酒害者に逆戻りしている事実を直視しなければなりません



♠46.酒を百薬の長というのは挽かれ者の小うたか
酔っぱらいの屁理屈  ♥


酒は百薬の長といわれます。
確かにアルコールには強心、鎮静、興奮、利尿、催眠などの薬理作用があります。
しかし、アルコールの主作用はあくまでも脳の麻痺作用であり先に述べた諸作用は、
麻酔用に伴う一過性の副作用にすぎません。
酒は百薬の長というのは、だからアルコールの主作用で麻痺した頭で副作用の長所を数え上げているいわば挽かれ者の小うたのようなものです。
百薬の長というのは酔っ払いの屁理屈にしても、私はこれこそ酒の正体を言い得て妙と、ほとほと感心しています。
とげのないバラはありません。
バラの美しさはとげを忘れさせるほどであり、あるいはトゲがあるからかえってバラは美しいといえます。
バラの花に心を奪われて、トゲで大変な怪我をすることがあります。
酒もそうです。
飲んだ者に百薬の長といわせるほどの魅力を持つ酒は、中毒という猛毒を秘めた甘いトゲを持っています。
失神欲求を満たしてくれる代わりに、酒はそれを愛する人達に酒害を押しつけるのです。



♠47.若いから酒を止められないというのは甘えの心だ、
若いからこそ酒癖を断つのだ ♥


若い人とお年寄りの断酒は難しいと言われる。
事実、酒害に悩む青年、お年寄りの相談は年々その数を増している。
しかもこれらの人々は断酒会に入会しても、なかなか断酒に踏み切れず、
何度もズッコケて入退院を繰り返す人が多い。
これは、青少年や老人は社会的にも家庭的にも重要な責任を負うことが少ない故だと説明する人もいる。
即ち、社会的にも家庭的にも他に依存する甘えがあるからだというのである。
最近の新聞に「青少年と女性は成年男子に比べて酒害にかかりやすい」という記事が載っていた。
身体的にも心理的にもさもありなんとうなずけるのである。
しかし私たちの仲間の中には、二十代、三十代の青年断酒家が少なからずいることも重大な事実である。
彼らは異口同音に言うのである。
「われわれは若い、遠大な夢や理想がある。
酒に溺れていたんではこの夢や理想は達成されない。
われわれは若いが故に断酒するのだ」と。



♠48.行動することが断酒継続の糧となり、
行動する量が断酒の質を決める ♥


昔から「流水苔むさず」とか「回っているコマは倒れない」とか言われ、動くことの大切さを説いた諺は多い。
断酒においても「行動すること」はきわめて大切なことである。
「行動すること」というのは「交流すること」と言っても過言ではあるまい。
即ち、断酒会活動に参加することであり、これが断酒継続の推進力になることを否定する人はいない。
これが断酒会の存在理由の第一であるからである。
しかしながら、自分の所属する断酒会の例会にしか参加しない人は、
いつか濁った、苔むした、視野のせまい断酒観しかもたない人になりかねない。
所謂ドライ・アルコホリクス(酒を飲まない酒害者)になる恐れすらあるのである。
「断酒は足でおぼえろ」というのはこの辺の心理を説いたものであり、
他の例会、断酒学校、酒害相談など多くの会活動に参加している人は、
自己の断酒を確実にすることは勿論であるが、極めて魅力的な人格をそなえた好ましい断酒家として成長していくのである。



♠49.酒害は人間を肉体的にも精神的にも老化させる♥

酒害者は、その酒害が進むにつれて、心理状態が子供のようになっていくことは多くの体験者の語るところであり、
「子供返りの心理」とか、「酒害は人間を赤ん坊にする」とか言われている。
また、肉体に関しては、肝臓、心臓、すい臓、血圧、神経、その他の機能が悪化することは知られているが、
皮膚や毛髪にまで言及する人はあまりいない。
しかし、断酒会に入会し、断酒を継続している多くの会員の体験談の中に、肉体全般にわたる若さが戻ってくる話が多く聞かれるのである。
「顔のつやが良くなった」「セックスがもどってきた」「疲れなくなった」等々・・・全般的に若返った喜びの声を聞くのである。
最近、禿げ上がった頭に毛髪が黒々回復した人さえいるのである。
人間が老齢化してくると健康な人でさえ、肉体が衰え、心理的には幼児化してゆくことは万人周知のことである。
そうなると、「酒害は人間を老化させる」と考えたほうがより適切であり、
いろいろな現象を説明するのに容易になるように思うのである。



♠50.一年断酒できたからといってそれはいったい何になろう、
十年断酒した人もそれは同じだ、明日はまた初日なのだ ♥


断酒会には、年齢、職業、社会的地位などによっての差別は一切ない。
勿論、断酒暦による差別などあろう筈はない。
いや、あってはならないのである。
それは酒害という病気の本質からきている重大な原理だからである。
一ヶ月断酒しても、一杯のめばまたズルズルと元の木阿弥になることは断酒家なら誰でも知っていることであり、
一年断酒しようが十年断酒しようが、それは全く同じなのだということも周知の事実である。
だから、のんだら元の酒害者に戻ってしまうということに関しては、
三日断酒した人も十年断酒した人も常に毎日同じスタートに立たされているわけであり、
社長であろうが、係長であろうが、全く同じなのである。
だから断酒暦はいくら長くてもそれは決して輝かしい勲章にはならない訳で、
断酒家にとっては、常に今日は初日であり、明日もまた初日なのだと思うことが大切である。



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